なぜ努力が必要なのか

努力しなくても、いい思いができる。こんなつじつまの合わない現実にどう整合性を持たすのか。北の湖理事長は「朝青龍が強いというよりも、周りが弱すぎるんだ。こんな中で作った記録なんか、たいした記録じゃない」と吐き捨てた。32回優勝という史上最多記録を持つ納谷幸喜・相撲博物館館長(元大鵬)も「稽古を怠れば、筋力はすぐに衰える。下の者を育てるのも、上の者の義務。精神的にもさらに成長してほしい」と苦言を呈している。

これでは歯を食いしばって稽古に汗する者がいなくなる。朝青龍の4連覇で、大相撲界は指導の根幹を揺るがす大問題を抱え込んでしまった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070122-00000005-ykf-spo

相撲に限らず,“結果の差は努力ではなく才能の差”ということは良くあります.にも関わらず,努力と言うものを必要以上に賛美する風潮は根強いです.成功したスポーツ選手のドキュメンタリには,“血の滲むような鍛錬”という言葉が良く出てきますし,私自身の体験でも,予備校時代は“努力は実る”とウンザリするほど聞かされてきました.上の記事にあるように,稽古を怠れば筋力は衰えるのである程度の努力は確かに必要ですが,それ以上を行う必要は別にないのでは,と感じます.

努力が持つ役割には,本来の役割(目的を達成するための努力)以外に,理不尽な現実を受け入れさせるという役割も担っています.

二つ目が失敗の納得や不平等の正当化、である。日本でもそうだが、地位や財といったものは不平等に配分されている。こうした不平等を人々が納得して受け入れられる仕組みが社会には必要である。

・・・(中略)・・・

何かに失敗したり、財の配分にあずかることが出来なくても、それは「がんばらなかったから」とか「がんばりが足りなかったから」と本人に原因が求められる。そうして人々は失敗や不平等を受け入れて、生きていく。本当はもともとの才能や環境が大きく影響するのだが。

とくに公教育の場では努力が強調される。その理由は、努力によって目的が達成できるというのも確かにある。しかしそれよりも、達成できない物事や不平等を人々に正当性をもって受け入れさせるための方が、役割としては大きい。

教育の場に限らず、一般の社会でも努力は重要である。ものごとは努力によって解決しないが、努力によって解決する(はず)というトリックは必要だ。

http://simple-u.jp/pd200504.html#2005-04-08

“こんなつじつまの合わない現実にどう整合性を持たすのか”という言葉はなかなか面白いと思います.皆,努力で全てが解決できるなんて幻想だ,と言うことに薄々気づいてはいます.ですが,その幻想が完全に幻想であると暴かれるてしまうと,いろいろと問題も生じてきます.“結果の差は努力の差”と言う幻想は社会にとっても多くの人にとってもそれなりに必要とされている幻想なのです.

幻想が暴かれた場合には,確かにどう頑張っても朝青龍のようにはなれないが,そこでふて腐れれば終わるのは明白である.重要なのは,達成可能な目標と現実的な鍛錬量(多すぎず少なすぎず)である,と言うことを教えるのがベストである,とは思います.ですが,皆が皆そう割り切れる訳もないだろうな,とも感じます.やはり,幻想は幻想のままにしておく方が良いのかもしれません.