娯楽としての凶悪犯罪

ただ、今までも行われてきた、興味本位の「犯行動機の詮索」は、もうやめるべきだと私は考える。不明瞭で日々変化する犯行動機を世間が知ったところで、誰にとって何の意味があるだろうか。それとも何か意味があると考え、今も昔も詮索し続けているのだろうか。

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意味はあるのだろうと思います。その意味は、道徳的には決して褒められたものではありませんが、それでも凶悪犯罪の詳細を詮索し続けることは世間にとってそれなりの意味を持ちます。

被害者や被害者の家族には悪いが、結果として社会に対して有益である事実に変わりはない。現に、凶悪犯罪であればあるほど、

  • 退屈しのぎになる
  • 話のネタになる

という事実がある。犯人はこれらを意図していないし、また認知していない場合も多いだろう。もちろん、娯楽を提供するために犯罪を犯したわけではない。

これは犯罪を肯定しているわけではない。ただ結果として社会がそのように動いてしまうという事実である。犯罪が発生し、そのニュースに注目し、非難し、制裁をくわえる。この機能は、正しく動作している。犯罪者は非難されるべきだし、道徳的にも問題はある。

大衆が娯楽として消費してしまうという事実があるだけである。

凶悪犯罪ほど娯楽になる

多くの人が他人と話すためのネタを必要としています。話のネタは自分達とは関係のないレベルの話の方が好ましい場合も多いですし、ネガティブな内容(他人の不幸など)のネタを求めることもあります(愚痴を言うための燃料としてなど)。その意味で、他人の殺人事件のようなものはうってつけの存在となります。見聞きした情報から殺人犯の残虐性を非難するなり、上記のようにメディアおよび大衆のあり方を問うなり、様々な角度から(場合によっては愚痴に近いような形で)話を膨らませ満足感を得ることができます(しかもローコストで)。

メディアが必要以上に殺人事件についてあれこれ詮索するのは、結局のところ大衆に提供する(ネガティブな)娯楽が不足しているからだろうと思います。多くの人はネタの情報源のかなりの部分をメディアに依存しています。しかも人々は、良い話のネタだけではなく、ある程度は他人の不幸的なネタも提供してくれることを(半ば無意識的に)期待しています。その大衆の期待に答える(≒視聴率を取る)ために、メディアは殺人事件についてあれこれと詮索を続けます。

今の状況が良いか悪いかと問われればもちろん悪いのだろうとは思うのですが、殺人事件などのネタを使わずに大衆の要求を満たせるようにならない限り、今の状況が変わることはないだろうなと感じます。