孟子が(下問[国の人口が増えないこと]に)答えていった、「王は、戦争がお好きだから、戦争で喩えましょう。今、まさに太鼓をたたいて、干戈を交えようとしたところに、鎧を脱ぎ捨て武器を引きずって逃げた者がいます。ある者は百歩逃げて止まり、ある者は五十歩逃げてふみ止まりました。この時、五十歩の者が百歩の者を臆病者と笑ったとしたら、いかがなものでしょうか。」王は言った、「それはいけない。ただ百歩逃げなかっただけで、五十歩でもやはり逃げたことに変わりはない。」、孟子は言った、「それがわかっているのなら、隣国より人口が多くなることを望まないでしょう。」
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E6%AD%A9%E7%99%BE%E6%AD%A9
有名な五十歩百歩の故事です.以前,友人との会話中に半分冗談で“五十歩と百歩は全然違う”と言ったことがあったのですが,それ以来ずっと気にかかっていた言葉なので少し真面目に考えてみます.
先にも述べたように,個人的には“五十歩と百歩は違う”と考えています.そう考えているのは私だけではなく,五十歩百歩でググってみると,同様の疑問を投げかけている人が数多くいることが分かります.ただ,それらの人々を見ても,多くは“語源となった故事を読むと何故,五十歩百歩が大差がないという意味になったのかが分かる”という結論に行き着いており,ここでさらに,何故この故事にはそれほどの説得力があるのかという疑問が沸いてきます.
この故事のうまい所(説得力の担保となっているもの)は,“五十歩の者が百歩の者を臆病者と笑ったとしたら、いかがなものでしょうか”という問いだろうと思います.もう少し具体的に言うと,五十歩の者がという部分です.これが,(五十歩逃げた者でも百歩逃げた者でもなく)第三者の問いかけであったならば,また違った答えが返ってきたかもしれません.しかし,当事者が(五十歩と百歩という)差を自ら主張することによって聞いている側が“お前が言うな”と言う否定的な感情を抱き,その否定的な感情が差を否定することに繋がっているのではないかと思います.
物事の多くは1か0と言うように二分化できるものではなく,それ故,程度の差が重要となってきます.一方で,“そんなもの大した差ではない”という思いを抱く場面にも多々遭遇します.そんな時は,一度自分は本当に“大した差ではない”と思っているのかどうか落ち着いて考えてみる必要があるのかなと思いました.それは単に“お前が言うな”と憤っているだけかもしれません.