(0ページ目)「働かないという選択肢があってもいい」 "リア充ニート"phaが考える社会とのかかわり方 - 日刊サイゾー より。何人の人が指摘していますが、この記事に対する mixi 日記がなかなか面白い様相となっています。mixi 日記は、人々の日常的な愚痴・不満が最も可視化されやすい場所の一つなので、少なからぬ人々がこういった生き方(生き方をしている人々)に対して不満を抱いているのだろうと思います。今回は、労働に関するものをいくつか。
そんな事では社会では通用しない
113 : ハンドニブラ(長屋):2010/04/04(日) 12:44:45.38 ID:pSe0MRAm 社会人二年生なんだけど、親戚で集まるたびに いっつも中学生や高校生の子に言うんだわ。お決まりのフレーズ 「社会に出たら厳しいんだぞ」「社会じゃ嫌なことたくさんあるんだ」。 「たまに志にたくなることもあるぞ。絶対厳しい目に会う。100%辛い目に会うんだ」と。 うん毎回言うね。社会人の俺としては「別にそこまで大変なわけじゃ、、、」状態。 親戚の人たちにも当然社会人はいるわけで、俺と同じ様子で視線を送ってた。 言われる子達もリアクションの取り方に困ってんのが一目瞭然なんだわ。 であんまり度が過ぎるんで、ある時うちの親父がキレちまったわけだ。 そんな事言い聞かせて脅してどうするんだ、大概にしろ、とこういうわけだ。 それに同意した親戚の何人かが熱くなってる親父を落ち着かせながらも やはり同様のことを諭すように言い聞かせるのだわな。いとこに。 子達に対しても「こいつが言うほど恐ろしい所じゃないから」 「○○君(いとこ)の話はちょっと大げさな所があるな」とフォロー入れつつ。 で、いとこ。社会が、、社会が、、、と涙目でヒックヒック言いながらつぶやき始めた。 また社会は厳しい談義か?と思ったんだが、泣きながら 「社会が、、、嫌だ、、、社会から逃げたい、、、山に篭って、、生活したい、、」 ときたもんだ。 この時わかったよ。悟ったっつうか。 こいつ今まで自分に言い聞かせてたんだわ。 嫌な事が多すぎて言わずにいられなかったんだわな。社会に出たら厳しいと。 皆何も言えなかった。さっきまでキレてた親父も押し黙ってうつむいてた。 いとこは極端な例で、こいつ以外にも「社会に出たら厳しい」が口癖の奴が たまにいるんだが、この件以来なんとなくわかった。 皆、厳しい社会に押しつぶされそうな自分に言い聞かせてるんだわな。 学生を諭すという形を借りて、必志で自分に言い聞かせてるんだわな。 最近じゃ会わなくなったけど今何してんのかな、いとこ。http://itainewssokuhou.seesaa.net/article/145660938.html
「主語が大きい」問題 - Life like a clown とも関連しますが、「そんな事では社会では通用しない」が「俺はそんな事では社会では通用しなかった」の言い換えでしかない例がしばしば見られます。もっとも、少なからぬ人が「自分は社会では通用しなかった」と言う経験をした結果として上記のような言葉が受け入れられていると考えると、そこまで間違ってはいないという気もします。
「社会の厳しさ」の9割は「社会は厳しくあらねばならない」という妄想を持った人たちによって作られている と言う言葉を見たときになるほどと思ったのですが、どちらかと言うと「社会の厳しさ」は各人の「自分の経験」をカウントして多数派を取ってみた感じかなと言う気がします。ただ、あくまでも「多数派」なだけで、絶対能力値の差とか世渡り上手な性格などの理由で「別に社会は厳しくない」と感じる人も結構います。そう言った人達との摩擦が表面化したのが最初の記事のような例なのかなと思います。
真面目に生きちゃ馬鹿を見る
昔、「自分達は自力でこんなに努力してレポート書いてるのに、Iさんは先生に助けてもらってばかり。どう思います?」と問われたので「自分達のレポートがきちんと完成できたんならどうでも良いんじゃない?」と答えたら、「○○(私)さんみたいに、他人は他人と考えられる人ばかりじゃないんです。」と怒られた事がありました。
Win-Win の関係みたいな表記を使うとすると、「Stay-Win の関係になるくらいなら Lose-Lose になってやる」と言う思考の人々と言うのは結構いるのだなぁと感じる事があります。同程度の事を成し遂げる場合、他人も自分と同程度の苦労を経験しないと気が済まないと言った類の感情でしょうか。「真面目に生きちゃ馬鹿を見る」と言う言葉がありますが、この言葉にも通じるところがあるように思います。「馬鹿を見る」と言うのは必ずしも自分が不利益を被っている事を指している訳ではないようです。
常に上を目指さなければならない
メキシコ人の漁師とMBA取ったアメリカ人のジョーク 辺りが有名ですが、「何事にも常に上を目指すべきだ」と「生きていける分だけあればそれで良い」と言う価値観はしばしば対立します。「飽くなき向上心」と「吾唯知足の心」の対立とも取れます。現代社会は、どちらかと言うと「飽くなき向上心」の方を美徳と捉えられる傾向が強いように感じます。そのため、後者を美徳と考える人達を見ると奇異に映るのかもしれません。
もっとも、「個人の幸福」に重点置く考えの方がどちらかと言うと現代的と言う指摘もあります。
さて、この「幸せとは限らない」という言葉が有効であるためには、ある前提が必要となる。それは、個人の幸福に価値があるという前提である。幸せに価値があり、幸せになることが人生における目標となっているから、「幸せとは限らない」と言って他人や自分を納得させることができるのである。
歴史的に見ても、他の文化と比べてみても、個人の幸福に価値を置かない人の方が多い。社会学者の作田啓一は、70年以降に個人の幸福の追求が価値あるものとなったと述べている。
かつては、個人の幸福の追求は……日かげの価値であったが、今やそれ自身で正当性を主張しうる積極的な価値となった。
(作田啓一『価値の社会学』岩波書店 1972 p.284)たとえば戦前であれば、個人が幸せを求めることに価値はあまりなかった。「結婚したからといって幸せとは限らない」と言ったとしても、「いったい何を言っているんだ?」と理解されなかっただろう。個人の幸福などそれほど問題ではなかったからだ。
「幸せとは限らない」という正当化
最後に
これは労働関係に限った事ではないのですが、規範意識と負の感情を繋げて考えてしまいがちな理由の一つに「規範意識が強すぎるが故に他人を攻撃してしまう」例を割と見かけてしまうせいかなと感じます。「地獄への道は善意で舗装されている」と言う格言がありますが、そうならないよう上手く折り合いの付けられる社会になれば良いなぁと漠然と思ったりするのですが、具体的な施策が思いつかず難しいなとよく感じます。