起承転結の呪縛

要するに、何を論じても「光と影」を指摘して「気をつけよう」といわないと気がすまない、ということだ。もちろん全部の答案がそうだというわけではないのだが、この類が実に多い。

http://www.h-yamaguchi.net/2006/08/post_9186.html

なかなか面白い指摘でした.私自身もややもすれば,こういった論調で語っているような気がします.せっかくなので,今回は何故このような論調になることが多いのかを私なりに少し考えてみようと思います.

まず,このエントリを始め多くの人が指摘している通り,そのスタイルが多くの人々の中に定着しているから,ということが考えられます.学校では,“文章を書く際には起承転結を良く考えて書きましょう”と習い,目にする文章もその教えが良く守られているものが多い.そのうちに,そのスタイルが定着してしまい,無意識のうちにそのスタイルで書いてしまうようになるのではないか,と思います.

もう一つは,光と影の“光”から書き始めた方が転の部分をあまり何も考えずに書けるから,ということがあるのではと思います.あるテーマに関して,良い部分から書き始めた場合には転で書くことは,そのテーマに関する問題点となります.一方,そのテーマに関して問題点から書き始めた場合には,転ではその問題点に対する解決策を考えていくこととなります(だが心配のしすぎではないだろうか.なぁに,かえって免疫がつく.というレトリックもありますが:p).問題点を挙げるのは比較的楽ですが,それに対する解決案を示すのはいささか頭を使う必要があります.そのため,文章を書く際は良い箇所を褒めることから始めるのではないのかな,と思います.

さて,こういったことが起こる根本的な原因の一つとして,そのテーマに関して興味がないから,という事があるような気がします.書いている本人としては,“「○○だけど××」といえば、「要するに『××』といいたいのだな」”ではなく,“○○。だけど××という悪いところもある。私たちは両方に気をつけて活用していきたい。いや、正直どうでもいいんですけどね。”という一文が隠れている(かつ最も“主張”したい所)ような気がします.

んー、でもそういうレトリックがクセになっている1人の人の裏には、そういうレトリックすらもこなせず何も書けない100人がいるんじゃないかな。

http://www.h-yamaguchi.net/2006/08/post_9186.html

自分の書いている文章がややもすれば,そういったレトリックに囚われてしまっていると気づくことは有用です.ただ,まぁその上で,あまり興味の沸かないテーマに関する論文などに関しては,そういったレトリックで誤魔化していくのもアリなのかなぁとも思います.

知らずにやると知っていてやるとの間には大きな溝がある,いろいろな意味で.