前提の共有

ここ最近,差別問題の議論が活発だったようです(という始まり文句を前にも書いたな).概ね収束してきたようですし,今さら問題となっていたことに関してしゃべる気もない(し思うこともしゃべり尽くされている)ので今日は別の観点から.

この議論を外から眺めていると,“核武装に関する議論はしてもよい問題”での議論に似ているなと感じるようになりました.何が似ているかと言うと,どちらか(あるいは双方)が相手の意見に対して“その意見は1㍉も理解できない”と言うような全否定の論調で望んでいることです.どこが理解できてどこが理解できない,というような形であれば議論もある程度は進むのですが,全否定が繰り返されているためにほとんどがループ状態に陥っているように見えました.

これは,どちらが悪いという訳ではなく,前提の共有が不十分なまま議論が進んでしまったせいではないか,と思います.

違うものの上に議論を積み重ねても、そもそものベースが崩れてるんだから「は、こいつ何言ってんの、ちょっと頭悪くね?」とかいう哀しい結末になってしまうんじゃないかと。

「人間は考える葦である」と言ったところで、「おれ植物じゃねぇしww」とか言われたらおしまいで、それはパスカルの議論のベースを共有できてないからだと。

理系学生日記:精神論がなぜ否定的にとらえられるのか - livedoor Blog(ブログ)

ネットにおける論争というものは,突発的に起こるものがほとんどです.そして,その問題に対して皆が自分の思うことを表明していく訳ですが,その際には各々が,程度の差はあれど“そんなことは言うまでもなく明白だ”という前提を元にして主張を行っていきます.しかしながら,前提の共有がされないまま議論に望んでいるため,相手側にとってはその事が“そんなことは言うまでもなく明白”ではなく,それ故その人の言っていることが(それこそ1㍉も)理解できないという状況に陥ります.ネット論争においては審判に当たる人も存在しませんので,一度このような状況に陥ってしまうと混沌としてしまいます.

あなたはテレビの討論番組を見ていて、「なんでこいつらは決着のつかない話を延々としているんだ」と思ったことはありませんか?そう思った人は少し思い違いをしているようです。あそこで言い争いをしている人達は決着をつけようなんてはなから思ってはいません。決着をつけるのはテレビに出ている人たちではなく、それを見ているあなたなのです。

・・・(中略)・・・

これらの条件が整っていないと討論は単なる言い争いに終わります。ほとんどのネット討論では審判がいませんが、これではルールのないサッカーのようなものです。ハンドだろうがファウルだろうが殴り合いだろうが何でもありのデスマッチになってしまいます。

http://iwatam-server.dyndns.org/software/giron/giron/x20.html#AEN23

ネットにおける論争では,中立的な立場にいる審判が存在しないなどの理由で,価値観の異なる二者の議論はあまりうまくいきません.それ故,そういった類の議論はできるだけ避けることも一つの道であると思います.ですが,それでもそのような議論をすることになった場合には,“そんなことは当たり前だ”と思ったときに,一度その“そんなこと”に当たる部分を文章にしてみると良いのでは,と思います.それによって,自分が何を前提しているのかが相手にも伝わり,少しは議論も(良い方向へ)進むかもしれません.

どちらも間違ってはいない.ただ,前提が共有できていないだけだ.