平均的な現代人というものは、
- 自らの痛みには敏感だが、他人の痛みには鈍感/無関心
- 相手が間違っている時は鬼の首をとったように批判するものの、自分の間違いを指摘されるとキレる
- 人の主張のバイアスには猛烈な批判を向けるものの、自分の主張にはバイアスがかかっているとは全く思わない
- 自分の話は聞いて欲しいが、人の話は聞きたくない
- 自分の自慢話はしたいが、人の自慢話は聞きたくない
- 自分は成功したいが、人の成功は見たくない
- 自分と異なる主張を目にしたとき、自分が間違っている可能性は一顧だにせず、相手が間違っていると思い込む
- 自分が困っている時は周囲に助けを求めるが、他人が困っている時は鮮やかに無視
- 人の不作為は批判するものの、自らがコストとリスクを背負って何かをしようとは決してしない
こんなところだそうです。
http://www.h-yamaguchi.net/2007/06/post_db4e.html
コメント欄より.一言で言うと,いつか使った“何言ってんだ?俺らはいつでも,都合のいい方に飛びつくんだぜ?”になるのでしょうか.程度の差はあれ,ほとんどの人は,このようなダブルスタンダードと言われる状態になる時があるのだろうと思います.
さて.ではなぜ,そういったダブルスタンダードな状態が渦巻いているこんな世の中がカオスな状況にならないのは,“俺ら”からも分かるように,多くの人が自分がダブルスタンダードである(ときがある)ことを自覚しているからだろう,と思います.自覚しているため,他人がそのようなダブスタな振る舞いをしても,それをある程度は理解できる(そう思ってしまうときもあるよね,とか).そして,そのような理不尽な振る舞いを,比較的その時に精神的に余裕のある人が吸収することによって世の中はうまく回っているのではないかな,と.
元エントリの例で言えば,後ろに並ぶビジネスマンがその役割を果たしています(吸収しきれなかったようですが).もし,この時誰もお金を拾おうとしなかったら,筆者の怒りはさらにひどいことになっていたことでしょう.“カウンターの若い店員”にしても,その時はヒステリックなおばちゃんの理不尽さを吸収してあげる精神的な余裕がなかっただけで,別の機会では(例えば対友人とか)吸収してあげたりもすることもあるだろうと思います.そして,そう言った持ちつ持たれつつの関係というのは,確かに筆者の言う通り“人間臭さ”なのでしょう.
楽観的なのかもしれませんが,“何言ってんだ?俺らはいつでも,都合のいい方に飛びつくんだぜ?”という精神はそれはそれで良く,重要なのはそれを自覚していることではないかと思います.