反語の多用による弊害

興味深い一文だったので引用.

疑問形で文章を書いてしまったことで、暗に賛同を強制する文体になっていて、それが余計に反感を煽るというご指摘も頂きました。

人のせいにするのはそろそろやめませんか?:Geekなぺーじ

ここ数年,Web 上で文章を読む機会が飛躍的に増加しているのですが,その際に気になっている事柄の一つに「反語表現に遭遇する頻度が高すぎる」と言うものがあります.どれ位多いかと言うと,「記事中に存在する“?”(疑問符)の数と記事の信頼性は反比例する」と言う俺俺法則が出来上がる位です:p

また,日常会話においても反語的な例(疑問文で終わっているけれども,本心は自分の主張を強調したい)にはしばしば遭遇します.人はなぜ,反語を好むのでしょうか?

断定する事の難しさ

反語表現が多用される要因の一つに「断定する事の難しさ」があるように思います.何であっても「断定する事」と言うのは相当の困難さを伴います.何かを主張しようとする際,その事柄に対してどれだけ調べようとも「間違いない」と言う自信を持てる事は稀です.さらに,(私を含めて)「ちょっとググった」程度で調査を終える事も多く,その場合には自分が抱く事のできる自信は雀の涙ほどと言う事も少なくありません.そのため,多くの人は「本当に正しいかどうか分からない」と言う不安を抱きながら文章を書き始めます.

反語は,この断定する事の難しさをぼやかす機能があります.反語にしておく事によって,もし自分の主張が間違っていたとしても「疑問として投げかけただけ」と言う逃げ道が生まれます.この逃げ道は,たとえ他人に言い訳する気持ちはなかったとしても,書き手から(間違った事を書くかもしれないと言う)心理的な抵抗感を抑える役割を果たします.

これに,反語が本来持つ「強調」と言う効果もかけ合わさり,書き手にとって反語は非常に魅力的な表現手法に映るようになります.

疑問なのか主張なのか分からなくなる

しかし,反語が多用されると弊害も生まれます.それは,「疑問に思った事を述べているのか,それとも自らの主張を述べているのか分からなくなる(分かりにくくなる)」と言うものです.冒頭の一文は,その弊害によって発生した批判の一つだろうと思います.書き手は「疑問」として投げかけただけなのに,読み手はその疑問を反語と解釈してしまい,議論がかみ合わなくなると言う光景はしばしば見受けられます.また,書き手自身が「疑問」なのか「主張」なのかをきちんと認識できないまま書いてしまっている(と感じる)文章も目にしたりします.

ある裁判所関係者は「被告人質問で、裁判員が被告を諭したり、しかったりするなど、『質問』であることを十分に理解していないケースもみられる」と話す。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/091119/trl0911192238017-n2.htm

日常生活においても,「質問する場なのに自らの主張を述べる」と言ったような「疑問」と「主張」を混同してしまう人は数多く存在します.レトリカル・クエスチョンに気をつけよう(コミュニケーションのヒント) ( ソフトウェア ) - 結城浩のYahoo!日記. - Yahoo!ブログ と言う問題提起もあるように,「疑問」なのか「主張」なのかを曖昧にしたまま話す人は多く,このために聞き手に意図が伝わらない(間違って解釈される)事もよくあります.こう言った「疑問」と「主張」を混同してしまう人が発生する要因の一つに反語の存在があるような気がします.

反語は便利で効果的な表現手法です.そのため,書き手はややもすると反語を多用しがちになります.しかし,反語も多用されると様々な弊害をもたらすようになります.実際問題として,反語を使ってまで強調しなければならない場面と言うのはそこまで多くはありません.(文章においても日常会話においても)反語を使う際には,「ここは本当に反語が必要なのか?ただの断定文ではダメなのか?」と言うことを一度吟味するように心がけた方が良いのかなと思います.