「時間がない」と言う焦りと所要時間の見積もり

Twitter 経由で 2013 年のゲーム・キッズ と言う Web ページを知りました。「○○年のゲーム・キッズ」シリーズは中学生位の頃によく読んでたなぁと思いながら Amazon を覗いてみた所、2999年のゲーム・キッズ(下) と言う文庫本が 2013/5/10 に発売されていました。このシリーズや、他によく読んでいたもので言うと キノの旅 などは短編集と言う形なので、時間のない時に少しずつ読めて良かった記憶があります。

時間がない

私自身は、ここ 10 年位は、本と言うと技術書くらいしか読む事がなくなってしまいました。読まなくなった理由は、ありきたりですが「忙しくて時間がない」と言うものなのかな、と思います。ちなみに、ブログの更新が停滞する時も大体「忙しくて時間がない」と言う理由です。

この、「忙しくて時間がない」と言う理由ですが、ここで言う「時間」は、必ずしも物理的な時間を指す訳ではなく、どちらかと言うと足りないものは「自分の気持ち的な余裕」と言った方が近い、と感じるようになりました。そこまで「時間」がないのであれば余計な事はほとんどできないはずなのですが、実際には大して意味のない Web ブラウジングで結構な時間を潰してしまったと言う苦い経験も数多くあるからです。

Twitter 等の SNS で、「忙しい」、「時間がない」とぼやいていると言うのは、ありがちな光景です。呟きを言葉通りに受け止めるのであれば「時間がないなら、取りあえずその呟きを辞めればいいのに」と言う感想を抱きますが、この場合も、足りないものは物理的な「時間」ではなく、当人の「気持ち的な余裕」なのだろうと思います。

所用時間の見積もりと物事を始めるための気力

ではなぜ、「本を読む」や「ブログを更新する」と言った作業は「忙しくて時間がない」と忌避する一方で、Web ブラウジングや Twitter 等の SNS の利用で結構な時間を浪費してしまうのか。これには、物事を始める際の「所要時間の見積もり」が関係しているように思います。

多くの人は、何らかの作業を始める際に、無意識的に「その作業がどれ位で終わるだろうか」と言う所要時間の見積もりを行います。例えば、200〜300 ページの小説を読むのに経験上 3 時間くらい要するな、とか。その結果、「これ位の時間だったらいいか」とか「3 時間も使う暇はさすがに今はないな」とか考えて、実際にその作業を行うかどうかを決定します。

Web ブラウジングや Twitter の更新は、この半ば無意識的に行われる「所要時間の見積もり」が実際よりも少なく見積もられるために、「時間がなく忙しい」時にも始めやすいのだろうと思います。多くの場合において、一記事を読むのには数分程度しかかかりませんし、一回呟くだけであればそれこそ数秒〜数十秒で完了します。そして、いったん始めてしまうと、それ以降は時間等をあまり気にせず続ける事ができます(続けてしまう、と言ってもいいですが)。

ひとたびフロー状態になると、それを維持するのは難しくない。私の一日の多くはこんな感じだ:


(1) 仕事にとりかかる。
(2) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。
(3) 仕事に取りかかる前にランチを取ったほうがいいと判断する。
(4) ランチから戻る。
(5) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。
(6) いい加減はじめたほうがいいと心を決める。
(7) emailをチェックしたり、Webを見たり、そのほかのことをする。
(8) 本当に始めなきゃいけないと、再び決心する。
(9) くそエディタを立ち上げる。
(10) ノンストップでコードを書いていると、いつのまにか午後7:30になっている。


ステップ8とステップ9の間のどこかにバグがあるようだ、私は必ずしもこの溝を飛び越えられないからだ。私にとっては、ただ始めることが唯一困難なことなのだ。静止状態にあるものは、そのまま静止状態に居続けようとする。私の頭の中にはとても重いものがあって、それを加速するのはとんでもなく難しいのだ。しかしひとたびフルスピードで回り始めたなら、それを動かし続けるのに努力は必要ない。

射撃しつつ前進

「物事をやり始める時が、最も大きな気力を要する」と言うのは、自分の経験上でも、よく感じる事柄です。仕事であれば、「締切」等の外圧があるため「それを利用して」やり始める事ができますが、そう言ったものが存在しない読書等の趣味に関しては、気持ち的な余裕がないとすぐに途切れてしまいます。そして、この「物事をやり始める際に要する気力の大きさ」は、恐らく、「その物事をするのに要するだろうと自分で見積もった時間の長さ」に比例するのだろうと思います。

誰かが「多様な娯楽が提供されている現代において、取っつきやすさと言う点で劣る読書は非常に不利である」と言っていた事が印象に残っています。スマートフォン等で提供されているゲームでも「ちょっとした時間で手軽にできる」事をアピールしているものも数多く見られます。ユーザに何か新しいものを始めてもらう際には、「所要時間を少なく見積もらせる(錯覚させる)」方法が(始める気力を出させるために)重要なのだろうと感じます。

私自身も、いろいろな物に関して、「こんなのすぐ終わるからやってしまおう」と楽観的に見積もれる事ができればいいなと思っているのですが、現実にはなかなか難しいようです。