40代の私が若いころは「モラトリアム」という言葉がはやった。いつの時代も、若者は自分がどうあるべきか悩むものだろう。私だって、10代、20代は悩み多き若者だった。女性にもてない、仕事では怒られっぱなし、自分に自信がない……。
そういう葛藤(かっとう)を一応は経て、「自分は自分でしかない」と開き直ってる私には、「自分探し」という言葉は流行語化していて切実感がなく、どうにも安っぽく聞こえてしまう。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20060715ddn002070009000c.html
中田選手に当てはまるかどうかは分かりませんが,自分探しがしたくなるときとは,今,自分の生活上で大きなウェイトを占めているもの(仕事,恋愛,etc)に対して何らかの不満を抱き,その結果隣の庭の芝が青く見えているときであると言えます.そして,さらに厄介なことに,この時“問題の隣の庭がどこか分からない”ということが往々にして発生します.そのため,自分探しをすると言う人は,この存在するかどうかも分からない庭を探し続けることになります.そして,いくらかの人は実際にその青い芝の庭を見つけることに成功しますが,多くの人はそのうち“そんな庭など存在しなかった”という事実に気づいて元の生活に戻っていく事になります.
ほとんどの人間には生きる意味なんてものはない。あったとしても個人と社会からの要求によって作り出された幻想だろう。
戦時中の兵士は「死にがい」を持って死んでいった人も多い。その「死にがい」が虚構で形作られたものであることを、現代に暮らす我々は知っている。
生きがいもなく、死にがいもなく、ただ日常をやり過ごすだけというのも悪くないと思うのだが、難しいようだ。
2006年、自分も何らかの「生きがい」や「生きる意味」を持って生きるしかない。嘆くわけではないが。
http://simple-u.jp/pdsome.php?beginid=619&endid=621
自分探しの結果,生きがいを見つけることのできた人は良いのですが,そうではない人はさらに悩む事になります.私自身,ただ日常をやり過ごすだけというのも悪くないとは思ってはいますが,その思いに反して生きがいを探す自分がいたりします.
自分探しという言葉は既にマジックワード化しており,チープな響きがするという意見も理解はできます.ですが,それでも探したくなるのは,現在の社会ではある程度は仕方のないことなのかな,とも思います.