信仰としての科学

うしとみしよぞ:視点・論点「まん延するニセ科学」を読んで何か残るものがあったので.残念ながら流行ってるコピペ改変ではありませんが.

現在の社会では,日常生活においても少なからぬ人々が“科学的かどうか”ということに執着します.例えば,幽霊など非科学的だからいない(信じない)とか.幽霊が存在しないことを証明するのは文字通り悪魔の証明ですが,だからと言って“科学的でないから”いないというのもまたおかしなものです.一方で,人魂に関しては“科学的に説明できるから”多くの人がその存在を信じています.

ふと,高校時代に古文の教師が次のような話をしたことを思い出しました.

平安時代の人々にとって,陰陽は現在の我々の科学と同じようなもので絶対的に信頼されるものでした.何かを決定するにしても,その拠りどころを陰陽に求め,その結果には必ず従う.向かう方向が不吉であると出れば回り道をしてでも違う方向へ行き,この時間が良いと出れば深夜でも出発する.まさに,陰陽は科学でした.

この話を聞いたとき,友人などと“馬鹿だなぁ”と笑ったことを覚えています.ですが,日常生活における私達の“科学”というものへの信頼は,これと同質のものを含んでいるような気がします.

確かに,現在の社会において科学は必要不可欠なものです.しかしながら,多くの人々は科学についてほとんど何も知らずに,ただ,“科学”を信じています.私自身,“科学とは何ぞや?”と問われてもピンと来ませんし,自分が専門としている分野を離れれば,実はほとんど何も科学について分かっていません.そして,これは多くの人々にとっても同様でしょう.それにも関わらず,多くの人々は,その事象が“科学的かどうか”という事に非常にこだわります.これは,昔の人々にとっての陰陽と同様に,現代の人々にとって“科学”が物事の判断をするための唯一無二(は言い過ぎですが)の拠りどころとなっているためだろう,と思います.

ニセ科学”と呼ばれるものに引っかかる人が多いのは,“科学”というものを無条件に信じていることも要因の一つなのではないかな,と思います.じゃあ,どういうスタンスで向き合っていけば良いのか,と問われると言葉に詰まりますが.