やりがいという幻想

GW中に実家へ帰省したときに、久々にドラマを見ました(テレビを見ること自体がかなり久々でしたが)。自宅でもたまには見ればいいのにな、などと思ったのですがそれは置いておいて、ドラマ中(ヘッドハンティングかな?)で面白いやり取りがなされていました。

A「給料は、今の会社の……6割は保証します!それ以上は、成果を見ながらということでどうでしょう?」
B「6割ですか……厳しいですね……」
A「や、やりがいは非常にある仕事だと思いますよ!!」

昨今の社会を良く反映しているなぁ、と感じました。

高度経済成長時代やバブル時代は、被雇用者に対するインセンティブはお金だけで十分に満たすことが可能でしたが、昨今の経済成長の停滞に伴ってそれ(お金だけでインセンティブを満たす)は非常に困難な事となり、お金に代わるインセンティブが必要とされるようになりました。しかしながら、お金の例でも分かるように目に見えるものによってインセンティブを与えることは既に限界が見えています。そこで、目に見えるものに代わって「やりがい」という精神的かつ抽象的なものがインセンティブとして叫ばれるようになりました。社会が「やりがい」を必要とするようになった訳です。

状況によって、個人や社会が生きる意味や死ぬ意味を求めるのである。

…(中略)…

ほとんどの人間には生きる意味なんてものはない。あったとしても個人と社会からの要求によって作り出された幻想だろう。

戦時中の兵士は「死にがい」を持って死んでいった人も多い。その「死にがい」が虚構で形作られたものであることを、現代に暮らす我々は知っている。

死にがいの喪失

「生きがい」や「死にがい」と同様、「やりがい」も社会からの要求によって作り出された幻想です。たとえ幻想であったとしても、個人(被雇用者)が思い描く「やりがい」と社会(雇用者)が与える「やりがい」が一致している間は、双方に取って好ましい状況が続きます。ですが、そうならないケースも多々存在します。

人は意味を求めてしまう動物だ。だが、意味を過剰に求めすぎると、今度は身動きがとれないし、考えても苦しくなる。世の中の多くの仕事はそれほど意味なんてないし、やりがいなんてない。自分にしか出来ない仕事は皆無に近く、自分らしさを発揮できる仕事も少ない。

死にがいの喪失

世の中には「やりがい」のある仕事というのはそれほど多くなく、「やりがい」とは無縁の仕事も数多く存在します。昔であれば、そう言った「やりがい」のない仕事も「十分なお金は払うからつべこべ言わずに働け」で済ますことができました。しかしながら、現在では雇用者側が声高に「やりがい」を叫んでいます。その結果、「やりがい」のない仕事に当たると(自分の思い描いていた「やりがい」と実際の仕事が異なると)被雇用者はインセンティブを失い、辞めるというカードを切ってしまいます。

自分にとっての「やりがい」とは何かを考えることは良いことだと思いますし、実際に自分にとって「やりがい」のある仕事に就けたのならそれは非常に素晴らしいことです。しかしながら、あまりにも「やりがい」を求め続けてしまうと、それは不幸な結果しか招かないのではと感じます。