いくつもの情報がWebに出ているにもかかわらず集団信仰みたいなことが起こってしまうのは、これは人が「信じたいものを信じる」傾向があるからなんだろうな、と思います。
http://kokokubeta.livedoor.biz/archives/50910961.html
・・・(中略)・・・
ただ、信じるバ○が悪い、あるいはデタラメ垂れ流すマスコミが悪い、と言い切ってみても、「いいじゃねーかお前が損してるんじゃないんだから空気読めよモヒカン(←誤用)が」という話も確かにあり、信じたいものを信じているからこそ幸せ、ということも事実として確かにあるわけで、そのあたりをどう判断すればいいのかアイデアが浮かびません。
人はある程度騙されていた方が幸せではないのか,としばしば思います.似非科学や怪しい信仰など世の中には幻想に溢れていますが,その幻想を全て潰してしまうと逆に生きづらい世の中になってしまう可能性もあります.
コメントで印象的だったのは、「RinRin王国」さんの「こう謎解きを進めていくと知的欲求は満たされるが、何もやる気がしなくなっていく」というもの。
恋愛が幻想だからといって、意味がないわけではない。幻想と知った上で楽しめばいいし、いびつに歪んだ自分の幻想を相手に押し付けなければ良いだろう。
普通の女性が真面目に調べてはいけない事
・・・(中略)・・・
研究する場合には幻想に振り回されていてはいけないが、普通に暮らしていくには幻想に振り回されていたほうが都合が良い。みんながそれに振り回されているなら、それについていったほうがコミュニケーションがとりやすい。でも、幻想性に気がついて自明性が喪失すると、振り回されることにも違和感を感じる。
血液型の話題などでもそうですが,一旦それが幻想(デタラメ,似非科学,...)であると知ってしまうと,その話題で盛り上がることに抵抗を感じるようになります.幻想であることを知ることによって,幻想に振り回されてる人をバカだなぁと嘲笑することはできるようになりますが,そこにあまりメリットはありません.場合によってはむしろ,対人関係の悪化などデメリットだけが残ることになったりします.例えそれが幻想であったとしても,信じることによってその人にメリットをもたらすことは多々あります.
さて,それでは幻想を信じる基準はどの辺りに置けば良いのでしょうか.個人的には,次の2点かなと思います.
- 物理的(身体的,金銭的など)な被害を被るかどうか
- 幻想を信じていない人からの嘲笑に耐えられるか
例えば,今話題になっている納豆ダイエットに関しては,納豆であれば多少過剰に食べたとしても体に害を及ぼすことは(多分)なく,金銭的にも大したことはありません.なので,取りあえず信じて実践してみる,でも良いと思います.一方,以前ニュースになった白いんげん豆ダイエットでは,下痢・嘔吐など身体に異常をきたす恐れが強いため信じるべきではありません.幻想を信じることによってどれだけの実害が出る可能性があるか,が基準の一つになると思います.
もう一つは,精神的な被害に関するもの.世の中を見ていると,多くの人が“他人を見下したい”という欲望を持っているように感じます.“マスゴミ”,“カスラック”,“匿名掲示板の闇”,“mixiのWebリテラシー”などの言葉からも分かるように,(特に自身の嫌いな集団に対して)何かあれば見下してやろうという人は数多く存在します.そのため,自分の信じていたものが幻想であると暴かれてしまった場合には,まず間違いなく見下される対象となります.そうなってしまったときに受け流すことができるかどうか,がもう一つの基準になります.
結局のところ,“幻想は幻想で適度には必要,ただしリスク管理はきちんと”と言ったところに落ちるのかな,と思います.