協調性とコミュニケーション能力

もう10年近く前のことになりますが,グループワーク主体の講義の中で,協調性とコミュニケーション能力についてプレゼンを行ったことがありました.このときに行ったプレゼンは,協調性を“主体性を捨てて相手に迎合する態度”と定義し,それに対してコミュニケーション能力を“自分の考えを論理的に相手に伝えるためのもの”と定義して,ビジネス社会においては後者がより重要であるという論旨でした(ここでのコミュニケーション能力は,欧米型のそれに近い).

しかし、特に活性化している企業において求められる「協調性」は全く違います。

このような会社で求められる「協調性」とは、企業の目的や目標を達成するために建設的かつ積極的に集団や構成員個々に対して働きかけることです。ですから、目的意識を持って意見や議論を積極的に行う人が評価されます。

活性化している事業集団においては「企業の目的・目標の達成に対する協調性」が求められ、単なる仲良し社員やイエスマン、上司に従うだけのお荷物社員は必要とされません。

http://tamatasi.blog70.fc2.com/blog-entry-274.html

このようなプレゼンを行うことにした動機は,↑に代表されるように企業や世間一般で協調性という言葉に対してネガティブなイメージが付きまとうようになり,それに対してコミュニケーション能力という言葉にはそのようなイメージがほとんど存在しなかったからだったように記憶しています.

ですが,“空気を読む”とも言われる日本型のコミュニケーション能力には,最初に述べた“主体性を捨てて相手に迎合する態度”が少なからず含まれています.そして,最近ではその“空気を読む”ことに対しても数多くの批判エントリを見ますが,それらのエントリが批判している部分は,往々にしてその“主体性を捨てて相手に迎合する態度”または“主体性を捨てて相手(多数派である俺達)に迎合するよう強要する人達”を批判しているように感じられます.

これらに共通して含まれる問題は,本当に問題にしている部分を曖昧にしたまま(イメージは持っているが明確に言葉に表すことはできない)概念を表す単語(“強調性”や“空気を読む”など)自体を批判してしまうことではないかと思います.

東京大学教授の苅谷剛彦が、『知的複眼思考法』(講談社 2002p.243-246)で、「禁止語」を勧めている。禁止語とは、ある概念を表す言葉を使用禁止にすることである。苅谷は、「生きる力」「報道の自由」「個性」などを例としてあげて、「こうしたキーワードは、容易にマジックワード(魔法のことば)に変わる。つまり、魔法の呪文のように、人々の考えを止めてしまう魔力をもっている」と述べている。

こうした言葉には、「なんとなくわかったつもり」になる効果がある。「活字離れ」も同様だ。概念や言葉だけが独り歩きして、もともとの問題がなんだったのか、わからなくなる。

http://simple-u.jp/pd200401.html#2004-01-10

何が問題であるのかをはっきりと認識しないまま概念を表す言葉自体を批判すると(最初の例では,協調性),それを改善するための新しい概念を表す言葉を提唱したはずなのに(同,コミュニケーション能力)気が付くと新しい概念の中にも同じ問題点が含まれてしまっていたという事が往々にして起こります.そして,結局のところ

# alias コミュニケーション能力 協調性

としただけだった,ともなりかねません.

ある概念を表す言葉について問題を提起する場合には,まず問題点をその概念を表す言葉を使わずに明確に記述し,その上でその問題点について検討する必要があるのではないかなと感じました.